雑踏
満員電車。スクランブル交差点。オフィス街。
キャリーケースを引いて歩く。
イヤホンで音楽を聴きながら。
キャリーケースはアスファルトの上でガラガラ音を鳴らしている。
夜の東京は私を孤独にさせる。
でも孤独が私を安心をさせる。
あれ?音が消えた。
iphoneを見る。停止ボタンを押して再生ボタンを押す。
聴こえない。壊れたのかな。
イヤホンを挿し直す。聴こえない。
もう一度挿し直す。
その時なにか違和感を感じた。
あれ…?何も聴こえない…。
キャリーケースを引いて歩いているのにガラガラ音がしない。
iphoneの再生ボタンも再生になっているのに何も聴こえない。
目の前に沢山の人が歩いている。
電話をしてる人がいる。
手を繋いでお喋りしてるカップルがいる。
でも何も聴こえない。
背後からの気配を感じない。
人とぶつかって転んだ。
血が出てる。擦り傷。
何がどうなってこうなっているのか分からない。
とりあえず歩道の端を歩いて近くのスタバに入った。
あったかい。
でも音がしない。聴こえない。何も。
なんで音がしないのか,なんで気配がないのか。
キャリーケースを置いて鞄を置いてイヤホンを外して椅子に座る。
暫くぼーっとして,やっと気づいた。
聴こえない。何も。
いつもなら聴こえるのに,なにも音が聴こえない。
右耳が聴こえなくなった。
唯一聴こえていた右耳が聴こえない。聴こえない。
その時なにか自分の中の糸が切れた。
右目から涙がポツンと一粒落ちた。
本当は直ぐに病院に行かなきゃいけない。点滴を受けて薬を飲めば治る可能性があるから。
でも今は行けない。行ける状態じゃなかった。
私の中の音が全て無くなった。
好きな音楽。お姉ちゃんの声。ピアノの音。
大好きな彼の声。
あ、もうわたしって音を感じることが出来ないんだ。これからずっと。この先もずっと。
もういてもたっても居られなくなって,パニックになりそうだった。水が欲しかった。過呼吸になってしまうから。
店員さんに声を掛ける。
振り向かない。もう一度声を掛ける。
振り向かない。振り向いてもらえない。
聴こえなかったのかな。何故かわからなかったからカウンターで 「お水を下さい」 そう言った。そしたらその店員は私の目を見て首を傾げた。
その時気づいた。
声が出ない。声が出せない。
スマホを出して 「お水を下さい」 そう書いた。
うんうん,と頷いて水をくれた。席に戻る。
何も聴こえない。何も話せない。
わたしが左耳の聴力を無くした時,パンフレットに書いてあった。
突発性難聴は直ぐ病院の治療を受ければ治る可能性がある。しかし失声は治療法が無く,声が戻るまで待つしかない。
あ。わたしってもう音を感じることができないのか。
普通突発性難聴で両耳が聴こえなくなることは少ないらしい。
でもわたしはなにもどこからも音を感じることができない。
そして声も無くした。
目は見える。目しか見えない。
神様は意地悪だね。
音楽が好きだった。お喋りを聞くのが好きだった。
彼の声が好きだった。彼ともっとお喋りしたかった。
神様はそんなわたしを音の無い世界に連れて行った。
何も聴こえない何も話せない。
人の気配も感じ取れない無音の世界。
水を一気飲みして, 「大丈夫だ。がんばれわたし。」 そう言い聞かせてキャリーケースを引いて苦手な満員電車に乗って過呼吸になりかけて,でも負けちゃいけないと思ってゲストハウスに帰ってきた。
音の無い世界に連れ込まれた千依林檎。
ちょっと,ほんのちょっと泣いた。
ほんの少ししか泣けなかった。
ただでさえ独りぼっちで 「障害者」 というレッテルを貼られ,一生治らない障害と闘いながら生きているのに。
死んでしまいたい。そう思った。
だけど,死ぬ前に
彼に会いたいと思った。
大変なのは分かっている。忙しいことも分かってる。わたしと一緒に居る時間をつくるなら今は出来るだけお母様の傍にいて欲しい。
でも本当に死ぬのなら,彼に
「ありがとう。だいすきだよ。またね。」
って笑ってお別れしたい。
今は冷たい風の吹く街中をなんとなしに歩いている。どこにいきたいわけでもない。でも雲でぼやけた月を見てなんとなく安心して,でも今日のことをまだ受け容れられなくて,泣きたいのに泣けなくて,それを冷たい風のせいにしている。
わたしってなんだろう。どこまで何を失うんだろう。
どうなってしまうんだろう。
都会は星が見えない。月がぼやけてるだけ。
朝になるまでに帰ろう。
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